top of page



浅草の語源はチベット語? 河口慧海「アーシャー・クシャ説」を追う
「浅草(アサクサ)」という名前は、どこから来たのだろう。 東京を代表する地名の一つであり、日々、様々なメディアで目にするが、その地名の由来は実のところ明確ではない。 現在もっとも一般的なのは、かつてこの一帯が広大な武蔵野の一角にあり、草深い土地に対して「草の浅いところ」であったことから「浅草」と呼ばれるようになったという説だ。台東区立中央図書館も「武蔵野の草の浅いところ」を定説として紹介している。 ところが浅草には、これとはまったく異なる、不思議な語源説が伝えられている。 「浅草は、“アーシャー・クシャ”という言葉から生まれたのではないか」 この説は、「チベット語説」と呼ばれている。一見すると、浅草とチベットを無理やり結びつけた突拍子もない奇説のようにも聞こえる。 しかし、この説を唱えたとされる人物を詳しく知っていくと、話は少し違って見えてくる。 その人物こそ、河口慧海(かわぐち・えかい)である。 「アーシャーは所在地、クシャは茅または聖」 浅草寺の僧侶・網野宥俊が1962年に著した『浅草寺史談抄』には、浅草の地名について幾つかの説が紹介され
9月22日


江戸時代以前の浅草の歴史。考古学者・鳥居龍蔵が見た「寺院都市・浅草」
江戸時代より前から、浅草は浅草だった。人が集まり、文化が生まれる街 現在、浅草は東京を代表する観光地のひとつだ。「江戸情緒が残る街」として紹介されることも多い。しかし、その歴史をたどっていくと、少し違った浅草の姿が見えてくる。 浅草は、江戸がつくった街ではない。 江戸という巨大都市が誕生するはるか以前から、この土地には人々の営みがあった。やがて浅草寺を中心に人が集まり、職人が住み、隅田川を人や物が行き交い、独自の街が育っていった。 そして約100年前、「江戸」と「浅草」はもともと異なる性格を持つ土地として発達したと捉え、その歴史を分けて考える必要があると論じた一人の学者がいた。 人類学者・考古学者の鳥居龍蔵である。 浅草を歩き、「江戸以前」を探った鳥居龍蔵 鳥居龍蔵(1870–1953)は、明治から昭和にかけて活動した日本の人類学・考古学の先駆者の一人である。徳島に生まれ、東京帝国大学の人類学研究室で研究に携わり、日本各地だけでなく、台湾、朝鮮半島、満州、蒙古、シベリアなど東アジア各地を実際に歩いて調査した。 鳥居の研究の大きな特徴は、現場
8月26日


浅草・奥山とは? 江戸随一のエンターテインメントメエリア
奥山とは? 江戸の人々が集い、遊び、流行が生まれた、浅草寺の “奥” に広がっていたエンターテインメントエリア「奥山(おくやま)」とは。 浅草といえば、雷門や仲見世、浅草寺本堂を思い浮かべる人が多いでしょう。 しかし、江戸時代の浅草には、参拝の先に、もう一つの大きな魅力がありました。 それが「奥山」です。 奥山とは、江戸時代、浅草寺(山号・金龍山浅草寺)の境内奥に広がっていた娯楽空間を指す呼び名です。正式な町名ではなく、参詣の動線の中で「奥」にあたる場所を、江戸の人々が自然にそう呼ぶようになりました。 なぜ「奥山」と呼ばれたのか 江戸時代、寺院は「山」と呼ばれるのが一般的でした。 比叡山、高野山、東叡山寛永寺と同じく、浅草寺も「金龍山」という山号を持つ寺です。 浅草詣では、 雷門 → 仲見世 → 本堂(観音さま) という流れが基本でした。 参拝を終えた人々が、さらに足を延ばした先、金龍山の「奥」にあたる場所が、「奥山」と呼ばれるようになったと考えられます。 奥山はどのあたりだったのか 奥山の位置については、さまざまな資料から、 ...
7月1日


奥浅草に息づく花街の記憶、芸者1,000人が行き交った観音裏の歴史
観音裏と花街を歩く お祭り、食べ歩き、職人文化、隅田川の風景。浅草には何度訪れても新しい発見があり、それぞれの人にそれぞれの浅草があります。 そんな浅草の多彩な魅力の一つとして、今も受け継がれているのが花街文化です。 浅草寺の北側に広がる「観音裏(かんのんうら)」。昼の賑わいとは少し違う空気が流れるこの場所には、江戸から続く文化が今も静かに息づいています。今回は、そんな浅草花街の歴史と魅力をたどりながら、観音裏という街そのものを歩いてみたいと思います。 ※花街(はなまち、かがい)とは 芸者屋が集まっている地域を指す名称。読み方は各地域により異なり、江戸・浅草の界隈では伝統的に「はなまち」と読まれることが多いが、京都などでは「かがい」と読む。公的な歴史呼称では関東でも「江戸六花街(えどろっかがい)」のように読まれる。花町とも書く。花柳(かりゅう)という別称もある。 観音裏とは何か 観音裏とは、その名の通り浅草寺観音堂の北側一帯を指す呼び名です。現在では「奥浅草」という名前を耳にすることも増えましたが、古くからこの地域を知る人々にとっては、観音裏
6月18日


招き猫のルーツは浅草にあり!江戸で一世を風靡した最古の招き猫「丸〆猫」の謎
今や世界中で親しまれている「招き猫」。そのルーツとされる存在が、江戸時代の浅草で生まれ、一大ムーブメントを巻き起こしていたことをご存じでしょうか。 嘉永5年(1852年)、浅草寺境内の露天で売り出された、「丸〆猫(まるしめのねこ)」と呼ばれた今戸焼の招き猫は、瞬く間に江戸の人々の話題となり、我も我もと、多くの人々が買い求めました。 現代で言えば、発売時の行列がニュースになるほど熱狂的なファンを持つアートトイ、ラブブやベアブリックのような存在だったのかもしれません。 浅草・三社様の鳥居前から始まった「招き猫」の物語 招き猫の由来にはさまざまな説がありますが、丸〆猫が最古の招き猫と言われている理由は、文献・絵画・出土品という具体的な裏付けの史料が複数残されている点です。 その中の一部をご紹介します。 文献資料: 『武江年表(ぶこうねんぴょう)』:江戸の神田雉子町(現在の神田小川町付近)の町名主・斎藤月岑(さいとう げっしん)が編纂した、江戸の都市文化を記録する編年体史料。嘉永5年の条に、丸〆猫の誕生秘話が記されています。 『藤岡屋日記(ふじおか
4月1日


浅草に「富士山」を作った男、明治の仕掛け人・寺田為吉の無謀な挑戦
今から140年ほど前、1887年(明治20年)の浅草に「奇想天外な塔」が建てられました。その名も「富士山縦覧場(ふじさんじゅうらんじょう)」。別名「浅草富士」とも言われました。 浅草公園第六区四号地に位置し、高さ32メートル、敷地1,000坪超、木と漆喰で作られた「富士山」を模した木造建築物でした。 この一大プロジェクトを立ち上げたのは、浅草に住む一人の商人(香具師)、寺田為吉。 彼がいかにしてこの無謀な夢を実現させたのか。その知られざるドラマに迫ります。 アイデアのヒントは「五重塔の修理」 きっかけは、1885年(明治18年)に行われた浅草寺・五重塔の修繕工事でした。当時、莫大な修理費用を捻出するため、工事用の高い足場を一般に開放し、「景色が見られる」という名目で登覧料を取ったのです。 すると、この「高い場所からの景色を楽しむ」という体験に当時の人々が殺到しました。これを目撃した寺田為吉は確信します。 「修理のついでですらこれほど人が集まるなら、最初から登ることを目的とした『山』を作れば、とてつもない商売になるはずだ!」 ...
1月20日


平成中村座、4年ぶりに浅草へ帰還。浅草と歌舞伎を結ぶ180年の物語
本日1月18日、浅草寺のご本尊・聖観世音菩薩の「初観音」という特別なご縁日、浅草の街にとって嬉しいニュースが届きました。 2026年10月、浅草寺境内の仮設劇場にて「平成中村座」の公演開催が決定! 初観音は、古くから「芸能成就」や「商売繁盛」とも縁の深い日とされ、多くの芸人や役者が浅草寺に願いを託してきました。 この日に発表された平成中村座の帰還は、浅草の歴史を知る人々にとって、ひときわ象徴的な出来事と言えるでしょう。 十八代目中村勘三郎さんの「江戸時代の芝居小屋を現代に蘇らせたい」という熱い想いから、2000年に浅草の地で誕生した平成中村座。 浅草での公演は2022年以来、4年ぶりとなります。 中村勘九郎さん、中村七之助さん兄弟を中心に、伝統の灯が再び浅草に灯ります。 なぜ、平成中村座はこれほどまでに浅草という場所にこだわり、そして街の人々に待ち望まれるのでしょうか。その理由は、約180年前の江戸時代に誕生した「芝居の町」の歴史にありました。 浅草の奥座敷に誕生した、芝居の理想郷「猿若町」 かつて、江戸の芝居小屋(中村座・市村座・河原崎座)
1月18日


浅草で開催された日本初のミスコン「東京百美人」、熱狂の総選挙
今、浅草の街から見上げる東京スカイツリーは、現代の東京を象徴するランドマークです。しかし、明治時代の浅草には「雲を凌(しの)ぐほど高い」とその名を謳われた、伝説的な塔がありました。 その名は「凌雲閣(りょううんかく)」、通称「浅草十二階」。 1890(明治23)年に誕生したこの塔は、当時日本一の高さを誇る約52メートルの建築物。日本初のエレベーターが設置されるなど、まさに時代の最先端をいく浅草観光の目玉でした。 しかし、開業早々にエレベーターが故障・運転停止という大ピンチに。「歩いて登るのはしんどい」と客足が遠のく中、運営側が打ち出したのが、当時の新聞で「軍師のごとき奇策」と評された、驚きのイベントでした。 それが、1891(明治24)年に開催され、浅草を熱狂の渦に巻き込んだ日本初のミスコン「東京百美人」です。 逆転のアイデア、「歩けない」を「歩きたい」へ! エレベーターが動かない以上、12階の展望台へ行くには、自分の足で階段を登るしかありません。しかし、ただ「頑張って登ってください」と言うだけではお客さんは納得しません。 そこで運営側は考え
1月2日


江戸時代の推し活? 浅草はお江戸のアイドルの聖地
浮世絵が伝える、会いに行けるお江戸のアイドル 江戸時代の浅草は、信仰と娯楽の中心地であると同時に、「美人の街」としても知られていました。 その背景を伝えてくれるのが、当時の大衆メディアでもあった浮世絵です。江戸を代表する「三大美人」と呼ばれた女性たちの中には、繰り返し浅草ゆかりの人物が登場します。 江戸時代の「浅草」は、今より広い意味を持っていた 江戸時代の「浅草」は、現在の町名よりも広い地域概念でした。 現在の浅草は、台東区の浅草一~七丁目を中心とするエリアを指しますが、江戸時代から明治初期にかけての「浅草」は、浅草寺を中心に、元浅草、寿、駒形、花川戸、雷門、千束などを含む、隅田川西岸の一帯を指す地域認識でした。明治期にはこの一帯を中心に「浅草区」が設けられ、後に下谷区と合併して現在の台東区になります。 さらに当時の人々にとっては、浅草寺への参詣の流れで上野や谷中方面までを含めた連続した文化圏として捉えられることも一般的でした。「浅草寺を中心とする行楽・信仰の圏域」そのものが、ひとつの巨大なトレンド発信地だったのです。 茶屋文化が生んだ
2025年12月27日
bottom of page
