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考古学者・鳥居龍蔵が見た「寺院都市・浅草」。江戸時代以前の浅草の歴史

  • 8月26日
  • 読了時間: 14分

更新日:8月27日

江戸時代より前から、浅草は浅草だった。人が集まり、文化が生まれる街


現在、浅草は東京を代表する観光地のひとつだ。「江戸情緒が残る街」として紹介されることも多い。

しかし、その歴史をたどっていくと、少し違った浅草の姿が見えてくる。

浅草は、江戸がつくった街ではない。

江戸という巨大都市が誕生するはるか以前から、この土地には人々の営みがあった。やがて浅草寺を中心に人が集まり、職人が住み、隅田川を人や物が行き交い、独自の街が育っていった。

そして約100年前、「江戸」と「浅草」はもともと異なる性格を持つ土地として発達したと捉え、その歴史を分けて考える必要があると論じた一人の学者がいた。

人類学者・考古学者の鳥居龍蔵である。

浅草を歩き、「江戸以前」を探った鳥居龍蔵

鳥居龍蔵(1870–1953)は、明治から昭和にかけて活動した日本の人類学・考古学の先駆者の一人である。

徳島に生まれ、東京帝国大学の人類学研究室で研究に携わり、日本各地だけでなく、台湾、朝鮮半島、満州、蒙古、シベリアなど東アジア各地を実際に歩いて調査した。

鳥居の研究の大きな特徴は、現場を見ることだった。

土地を歩き、地形を見る。遺跡や古墳を調べる。そこに残された人間の痕跡から、その土地がどのように形成されてきたのかを考える。

そして鳥居にとって、東京もまた重要な研究対象だった。

浅草周辺にも足を運び、待乳山や浅草寺境内、伝法院、弁天山などを調査している。関東大震災によって周囲の建物が焼けたことで、それまで街の中に隠れていた地形が姿を現すと、鳥居はそこに古い東京の痕跡を見つけようとした。

1927(昭和2)年には『上代の東京と其周囲』を刊行し、江戸が巨大都市になるよりはるか以前の東京について、地形や遺跡、古墳などから考察している。

つまり鳥居は、後世の文献だけを読んで浅草について語った人物ではない。

浅草の土地そのものを見ながら、「江戸以前の浅草」を考えようとした研究者だった。

そんな鳥居が1919(大正8)年に書いた文章が、「人文地理上より見たる江戸と浅草」である。

「江戸」と「浅草」は、もともと別だった


鳥居龍蔵は、江戸と浅草を一つの都市として考えることに疑問を投げかけている。

鳥居がまず注目したのは地形だった。

江戸城周辺は台地の上にある。一方、浅草は隅田川に近い低地にある。

しかし、鳥居が見ていたのは単なる地形の違いだけではなかった。

二つの土地は、人が集まった理由も、その成り立ちも異なっていた。

江戸は、武将と城を中心として形成された、政治的・軍事的な性格を持つ土地だった。

それに対して浅草は、観音信仰を中心に人々が集まり、その周囲に工芸や商業が加わって発達した土地だった。

鳥居は浅草について、こう書いている。

「浅草は沖積層デルタの出来ると共に出来た聚落で、ここに観音菩薩が中心として発達した所」

さらに、その姿を「ヨーロッパ中世紀の寺院都市」にたとえた。

寺院を中心に人が集まり、その周囲に職人や商人が集まり、一つの都市が形成されていく。鳥居は浅草にも、それと似た発展を見ていたのである。

『上代の東京と其周囲』では、この違いをさらに明確にしている。

江戸は、武将と城を中心とする「武将的・城塞的」な集落。

浅草は、浅草寺を中心として人々が集まる「民衆的・寺院都市的」な集落。

つまり、江戸と浅草は、最初から一つの都市として生まれたわけではない。

それぞれ異なる理由で人が集まり、異なる性格を持つ場所として、別々に発達していたのである。

そして後に、武将的な江戸と民衆的な浅草が接近し、一つの巨大都市の中で結びついていった。

鳥居は、東京の古代史や文化史を考えるうえでは、この二つを本来分けて見る必要があると考え、その歴史的な展開を「実に奇蹟的で面白い」と捉えている。

現在の東京から見れば、江戸と浅草を別々の都市的な世界として考えることは難しい。

しかし時間を遡れば、そこには「城」を中心に発達した江戸と、「観音」を中心に発達した浅草があった。

そして、この視点から浅草の歴史をさらに遡ってみると、もう一つ興味深い姿が見えてくる。

浅草寺ができるより前の浅草である。

浅草寺より前から、人は暮らしていた


浅草の歴史は、浅草寺から始まるわけではない。

鳥居龍蔵が『上代の東京と其周囲』で強い関心を向けたのも、まさに「観音よりも以前」の浅草だった。 現在の浅草は平坦な低地に見えるが、隅田川沿いには周囲よりわずかに高い自然堤防や微高地があり、古い遺跡もそうした場所に集中している。浅草寺周辺の古代史を考えるうえでは、こうした地形も重要な手がかりになる。

鳥居が注目したのは、浅草の各所に残されていた「塚」である。

妙亀尼塚、浅草寺境内の弁天山、銭塚、蛇塚、さらに待乳山など、浅草には古くから「塚」と呼ばれる場所や、周囲の低地から不自然に盛り上がった土地が点在していた。

鳥居は江戸時代の地誌『江戸砂子』などに残された記録をたどり、後世に弁財天や稲荷が祀られたり、さまざまな伝説と結びついたこれらの塚の中に、さらに古い時代の古墳が含まれているのではないかと考えた。

そして1923(大正12)年、関東大震災が起きる。

多くの建物が焼失したことで、それまで街の中に隠れていた地形がむき出しになった。鳥居は震災後の浅草を歩き、妙亀尼塚や浅草寺境内の弁天山などを調査した。『上代の東京と其周囲』には、震災後の写真も残されている。

近代の街が失われたことで、その下にあった、さらに古い浅草の姿が一時的に現れたのである。

鳥居は、浅草寺境内にかつて多数の塚が存在したことにも注目し、この一帯に古墳群があった可能性まで考えている。

もちろん、鳥居が古墳と考えた場所のすべてが、現在の考古学によって古墳と確認されているわけではない。その評価には慎重さが必要である。

しかし重要なのは、鳥居が浅草の歴史を浅草寺の創建から始めなかったことである。

浅草寺周辺をはじめ、現在の台東区内では古墳時代の遺跡も確認されている。浅草寺が成立する以前から、この地域に人々の営みがあったことを考える材料は残されている。

その後、飛鳥時代に浅草寺が成立する。 浅草寺の寺伝では、628(推古天皇36)年、隅田川で漁をしていた檜前浜成・竹成兄弟が一体の観音像を得たことを起源とする。兄弟がその像を土地の有力者であった土師真中知に見せると、真中知はこれが聖観世音菩薩像であることを知り、深く帰依した。やがて自ら出家し、自宅を寺として観音像を祀ったと伝えられている。これが浅草寺の始まりとされる。

628年に突然「浅草という都市」が完成したわけではなく、そこにはすでに人間の営みがあり、その土地に観音信仰という強力な「人を集める核」が生まれた。

そして浅草寺は、長い時間をかけて、その周囲にさらに多くの人々を引き寄せていくことになる。 この浅草寺草創の物語は、約1400年前の伝承として残っているだけではない。

観音像を隅田川から引き上げた檜前浜成・竹成兄弟と、それを祀った土師真中知の三人は、後に三社権現として祀られ、現在の浅草神社へとつながっていく。そして三社祭では、現在も三基の本社神輿にそれぞれの御神霊を移し、浅草の街を渡御する。

浅草寺の始まりを伝える物語が、今も街の祭りの中に息づいているのである。


浅草寺の周りに職人が集まる

平安時代末期から鎌倉時代にかけて、浅草寺はすでに大きな寺院へと成長していた。

そして、この時代の浅草を考えるうえで興味深いのが「大工」の存在である。

鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』には、1181(治承5)年、源頼朝が鶴岡若宮の造営にあたり、「武蔵国浅草」の宮大工を呼び寄せたことを示す記録がある。

12世紀の時点で、浅草の宮大工が鎌倉の重要な寺社造営に関わる存在として記録されているのである。当時の浅草に、鎌倉へ呼ばれるほど高度な腕を持つ職人が住む集落があったことが、この一行から読み取れる。

寺がある。寺を建て、修理し、維持する技術を持った人々がいる。

職人が暮らせば、その家族が暮らす。生活を支える商いも必要になる。

鳥居は「観音が中心となってこれに工芸、商業などが附属して発達して来た」と書いている。

その言葉は、こうした中世浅草の姿と重なって見える。

浅草寺と、もうひとつの重要な存在「隅田川」

浅草の発展を考えるうえで、浅草寺と並んで重要なのが隅田川である。

現在の橋場付近にあった石浜は、中世には武蔵国から下総へ渡る交通の要地だった。

さらに石浜は、単なる渡船場ではなかった。

中世には水運の拠点として機能し、西国方面から来る船とも結びつく場所だったと考えられている。人と物が集まることで、現在の今戸周辺には問屋も存在し、年貢などの物資の運送、保管、売却が行われていたとされる。

ここで浅草の姿が少しずつ見えてくる。

浅草寺という「信仰」。職人たちの「工芸」。隅田川という「交通と水運」。石浜・今戸の「物流と商業」。 鳥居が浅草を「寺院都市」と見た背景には、寺が単独で存在していたのではなく、その周囲に人の暮らし、技術、商い、交通が集まっていたという、この街の構造があった。

江戸という巨大都市が誕生する以前から、浅草周辺には、人を集め、物を動かし、商いを生み出すための複数の機能が存在していたのである。

江戸ができる前から「浅草」はあった

室町時代末期から戦国時代にかけて、浅草の存在はさらに明確になる。

小田原北条氏が作成した『小田原衆所領役帳』には、下谷、谷中、石浜、今戸、上野、金杉、千束、鳥越などとともに、「浅草」の地名が記されている。

徳川家康が江戸へ入る以前から、浅草をはじめとする現在の台東区一帯には、すでに複数のまとまった集落が存在していた。

そして1590(天正18)年、徳川家康が江戸へ入る。

1603(慶長8)年には江戸幕府が開かれ、江戸城を中心に巨大な城下町の建設が進んでいく。

そして、その時、浅草にはすでに浅草寺があり、人が暮らし、職人がいて、商いがあり、隅田川を通じて人と物が動いていた。

江戸の中に浅草ができたのではない

江戸時代前期、江戸の市街地は急速に拡大していく。

そして1657(明暦3)年の明暦の大火を契機として、幕府は大規模な都市改造を進めた。寺社や屋敷の移転、火除地や広小路の整備などによって、それまで江戸中心部に集中していた市街地は周辺へ広がっていった。

その過程で、浅草寺周辺も巨大化する江戸市街の中へ組み込まれていく。

ここで歴史を見る方向を少し変えてみると面白い。

江戸の中に浅草がつくられたのではない。すでに存在していた浅草へ、巨大化した江戸が到達したのである。

鳥居龍蔵は「人文地理上より見たる江戸と浅草」の最後に、江戸史と浅草史は、本来それぞれ別に見ていく必要があると書いている。

現在の地図だけを見れば、浅草は東京の一地域である。

しかし時間を逆にたどれば、東京より前に江戸があり、その江戸より前に、浅草はすでに存在していた。 鳥居の視点が面白いのは、現在の東京から過去を遡るのではなく、まだ東京という都市が存在しなかった時代から、それぞれの土地がどのように人を集めてきたのかを見ようとしたところにある。

城を中心に人が集まった江戸。観音を中心に人が集まった浅草。それぞれ別の理由で育った二つの土地が、やがて一つの巨大都市の中で出会ったのである。

浅草が育んだ文化が、江戸と出会い花開く

江戸と浅草がつながったことは、浅草にとっても大きな転換だった。

巨大都市・江戸の人口と経済力が、浅草寺が長い年月をかけて培ってきた「人を集める力」と結びついたからである。

浅草寺に参詣者が来る。人が来れば、食べる場所が必要になる。土産を買う。店が増える。人が集まれば、見世物が始まる。遊びが生まれる。芝居が生まれる。そして、それを目当てにさらに人が集まる。

浅草は次第に、信仰だけではなく、飲食、小間物、土産、見世物、遊興が集まる江戸屈指の盛り場へと成長していった。

さらに天保の改革の一環として、1840年代には江戸を代表する芝居小屋「江戸三座」が浅草猿若町へ移転する。浅草は、信仰と商業だけではなく、芝居と芸能の中心地にもなった。

しかし、これは単に「江戸が発展したから浅草も栄えた」と考えるだけでよいのだろうか。

浅草には江戸以前から、人が集まり、職人が集まり、物が動き、商いが生まれる土壌があった。

そこへ巨大都市・江戸の人口と経済力が加わった。

そう考えるなら、見方を逆にすることもできる。

江戸が浅草をつくったのではない。浅草が長い時間をかけて育んできた人の流れ、商い、文化もまた、江戸の大衆文化を花開かせる土壌のひとつになった。


「人が集まる」ことから文化が生まれる

浅草の歴史を長い時間軸で見ていると、一つの循環が見えてくる。

「人が集まる。商いが生まれる。文化が生まれる。その文化が、また人を呼ぶ。」

浅草寺への信仰によって人が集まり、その人々を相手に商いが生まれ、やがて見世物や芝居が発達する。

そしてこの循環は、江戸時代で終わらなかった。

明治になると浅草公園・六区に劇場や見世物が集まり、新しい大衆娯楽が次々に登場した。

大正には映画や浅草オペラ。

昭和には映画、演劇、レビュー、寄席、演芸。

浅草は長い間、その時代の新しいものを見るために人々が集まる場所だった。


浅草が「古い街」になった時代

しかし、浅草の歴史は、人が集まり続ける一直線の繁栄の歴史ではない。

近代に入ってからも、浅草は何度も大きな危機を経験している。

1923(大正12)年の関東大震災では、浅草の街は大きな被害を受けた。それでも街は復興し、昭和に入ると六区を中心に映画、演劇、レビュー、寄席、演芸などが集まり、再び東京を代表する大衆娯楽の街として賑わった。

そして1945(昭和20)年の東京大空襲によって、浅草は再び壊滅的な被害を受ける。

そこから人々はもう一度街を立て直した。戦後の六区には映画館や劇場が並び、浅草寺には参詣者が戻り、仲見世や商店街には人が行き交った。

浅草は、街の姿を失っても、そのたびにもう一度、人が集まる場所をつくり直してきたのである。

しかし昭和後期になると、これまでとは異なる危機が訪れる。

テレビの普及、映画産業の衰退、東京の都市構造の変化によって、娯楽や若者文化の中心は新宿、渋谷、池袋などへ移っていった。六区の映画館や劇場も次第に姿を消し、昭和後期から平成にかけて、浅草は長い停滞の時代を経験する。

「新しい文化が生まれる街」だった浅草は、いつしか「古い街」として見られるようになった。

しかし、浅草が長い時間をかけて育んできた文化そのものが消えたわけではなかった。

浅草寺への信仰、三社祭をはじめとする祭り、花街、寄席や演芸、職人の仕事、仲見世や商店街の商い、食文化、土産物、着物、路地の風景、そして何代にもわたって暖簾を守る店。

浅草寺を中心に人が集まり始めた時代から、中世、江戸、明治、大正、昭和へ。それぞれの時代の営みが幾重にも積み重なり、浅草という街をつくってきた。それらは街の勢いが変化した後も、人々の暮らしの中で受け継がれていた。

そして平成後期になると、時代の側が変わり始める。

世界の都市が発展し、街の風景や暮らしが次第に似たものになっていく一方で、浅草では、長い歴史の中で受け継がれてきた文化が今も街の日常の中にあった。一時的に「古い」と見られていたものは、「日本らしさ」、この街にしかない時間の積み重なりを感じられるものとして、あらためて価値を持ち始める。

そして、その価値を見つけたのは日本人だけではなかった。

浅草に息づく日本文化との出会いを求めて、今度は世界中から人々がやって来るようになる。

そして令和、世界から人が集まる

浅草が長い歴史の中で培ってきた文化は、今、国内屈指のインバウンド(訪日外国人観光客)人気を誇る一大観光地として、世界中から訪れる人々を惹きつけている。 その賑わいは、数字にも表れている。

台東区が2025年に発表した観光統計によると、2024年に台東区を訪れた観光客は年間4,121万人。そのうち外国人観光客は640万人にのぼり、前年から45%増加した。浅草を含む台東区は今、国内外から膨大な数の人々が訪れる観光地となっている。

かつて観音への信仰を求めて人々が集まり、江戸には参詣や商い、娯楽を求めて人々が集まった。明治・大正・昭和には、新しい大衆文化を求めて日本中から人々が押し寄せた。そして令和の今、日本文化との出会いを求めて、世界中から人々が浅草へやって来る。

時代によって、人々が浅草に求めるものは変わってきた。しかし、新しいものが古いものに取って代わったわけではない。長い時間をかけて受け継がれてきたものの上に、その時代の文化が幾重にも積み重なり、今の浅草がある。人が集まれば、商いが生まれ、文化が育つ。そして、その文化がまた人を呼ぶ。浅草は、その循環を繰り返しながら時代を重ねてきた。

1919年、鳥居龍蔵は浅草を、江戸とは異なる歴史を持つ「寺院都市」として見た。それから100年以上が経った今、その視点から浅草の歴史をたどると、江戸の一角としてではなく、江戸時代以前から独自の時間を積み重ねてきた街としての浅草が見えてくる。

浅草は、長い時間をかけて人を集め、職人と商人を育て、商いと文化を生み、その力を巨大都市・江戸へとつないでいった。その後も震災、戦災、時代の変化を経験しながら姿を変え、令和の今、再び大勢の人であふれている。今度は、日本中からだけではない。世界中からだ。

江戸時代より前から、浅草は浅草だった。 世界中から人々が訪れる今の賑わいの風景もまた、いつか浅草の長い歴史の一頁になるのだろう。


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