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浅草で開催された日本初のミスコン「東京百美人」、熱狂の総選挙

更新日:1月3日

今、浅草の街から見上げる東京スカイツリーは、現代の東京を象徴するランドマークです。 しかし、明治時代の浅草には「雲を凌(しの)ぐほど高い」と その名を謳われた、伝説的な塔がありました。 その名は「凌雲閣(りょううんかく)」、通称「浅草十二階」。

1890(明治23)年に誕生したこの塔は、当時日本一の高さを誇る約52メートルの建築物。 日本初のエレベーターが設置されるなど、 まさに時代の最先端をいく浅草観光の目玉でした。

しかし、開業早々にエレベーターが故障・運転停止という大ピンチに。 「歩いて登るのはしんどい」と客足が遠のく中、運営側が打ち出したのが、 当時の新聞で「軍師のごとき奇策」と評された、驚きのイベントでした。

それが、1891(明治24)年に開催され、 浅草を熱狂の渦に巻き込んだ日本初のミスコン「東京百美人」です。


逆転のアイデア、「歩けない」を「歩きたい」へ!


エレベーターが動かない以上、12階の展望台へ行くには、自分の足で階段を登るしかありません。 しかし、ただ「頑張って登ってください」と言うだけではお客さんは納得しません。

そこで運営側は考えました。 階段を登る途中に、ついつい立ち止まって見てしまうような 『お楽しみ』があれば、52メートルの高さも苦にならないのではないか?

この難題への答えが、「美人の写真」と「選挙」の仕組みを掛け合わせることでした。 階段の各階をギャラリーにし、登りながらお気に入りの美人を探して、最上階で投票してもらう。 この前代未聞の参加型イベントは、 まさに「歩きたくない」という不満を「歩く楽しみ」へと変える魔法の仕掛けだったのです。

階段を「美の回廊」に変えた驚きの演出

「ただ階段を登る」のを「美女を眺める楽しみ」に変えるため、 閣内には並々ならぬ情熱が注がれました。

  • 巨大な彩色写真: 3階から6階にかけ、高さ約90cm・幅約60cmという当時としては破格の巨大写真100枚を展示。

  • 背景へのこだわり: 印象に差が出ないよう、名写真師・小川一眞が専用の日本間を新築して撮影。芸者たちが持つ団扇には、さりげなく「凌雲閣」の文字が入るという徹底したブランディングでした。

この「階段ギャラリー」を見ながら登り、最上階(12階)で清き一票を投じる。 この粋な仕掛けが当たり、凌雲閣は再び身動きが取れないほどの賑わいを取り戻しました。

現代のアイドル総選挙も顔負け?「推し活」の熱狂

投票が始まると、現場は単なる「美人コンテスト」を超えた熱狂に包まれました。

  • 大量投票の嵐 ひいきの芸者をどうしても勝たせたい旦那衆たちが、大量に入場券を買い占めて何度も階段を往復。

  • 不正と延長戦: あまりの過熱ぶりに、票の買収や不正操作が疑われる騒ぎも。その結果、当初の予定日数より延長されるという、異例の事態となりました。

まさに現代のアイドル総選挙のルーツが、明治時代の浅草にあったのです。


数字で見る「東京百美人」の衝撃


このイベントがいかに熱狂的だったかは、残されている数字が物語っています。


  • 入場者数は驚異の150倍! エレベーター故障時の平日は1日平均300人ほどだった入場者が、開催期間中には1日平均1万人、5日間で約5万人という空前の記録を叩き出しました。

  • 総投票数は約48,000票! 当時は入場券1枚につき投票用紙が1枚配られました。5日間で4万8,000票余りが投じられたということは、ほとんどの来場者が「推し」のために12階まで登りきったことを意味しています。



初代優勝者(一等)は、17歳の「玉菊」

見事初代女王の座に輝いたのは、新橋・玉川屋の「玉菊」さん 当時まだ17歳という若さでしたが、その美しさと品格は群を抜いていたといいます。

彼女には、なんと「ダイヤモンド入りの純金ネックレス」と「大和錦の丸帯」が贈られ、

そのニュースはさらに彼女の人気を不動のものにしました。

しかし、この圧倒的な得票数の裏には、彼女を贔屓にする旦那衆が

「一人の芸者に1,000票単位で投じる」といった凄まじい集票合戦があったとも伝えられています。

まさに浅草十二階を舞台にした、意地と情熱のぶつかり合いだったのです。




洗い髪の奇跡、おつまが変えた美人の定義


このコンテスト、実は出場した芸者たちにとっても生活を賭けた真剣勝負でした。 自分の順位がそのまま「花代(お座敷の料金)」などの評判に直結するため、 現場の熱量はすさまじいものでした。途中経過の発表に納得がいかず、運営側に激しく抗議したり、 中には「そんな順位なら写真を下ろせ!」と閣主に詰め寄る者までいたといいます。

そんな殺気立つような雰囲気の中、ひときわ異彩を放ったのが、 「小つま(お妻)」さん(本名:安達ツギ・17歳)です。 彼女を語る上で欠かせないのが、撮影当日の驚くべき決断です。

予約していた髪結いさんが現れないというトラブルに見舞われた彼女は、 なんと「洗い髪(髪を結わない)」のまま、撮影現場に駆け込みました。 今の感覚ではピンときませんが、 当時の女性にとって、結っていない髪で人前に出るのは恥ずかしく、あり得ないことでした。

しかし、その恥を捨ててでも撮影に挑んだ彼女の姿は、 逆に「自然体で色っぽい!」と人々に鮮烈な衝撃を与えたのです。 当時のカッチリと結い上げた盛り髪とは真逆のストレートロングのワンレン。 さらに洗いたての水分を含んだ、無造作なウェットヘアの質感は、 アンニュイでエフォートレスな美しさを放っていました。

実はこの第1回大会、小つまさんの最終的な得票数は341票で、ランキングでは入賞圏外。 上位が数千票を争う組織票の渦に沈んでしまったのです。 しかし、コンテストが終わってみれば、世間の話題は彼女のことで持ちきりでした。 あまりの反響に、翌年の第2回大会では「確信犯」として自ら洗い髪の姿でエントリー。 見事、総合2位にランクインするという鮮やかなリベンジを果たしました。

彼女はまさに、写真という新しいメディアが生んだ時代の寵児(スター)でした。 その人気は凄まじく、グラビアアイドルの先駆けのような存在として写真は飛ぶように売れ、 のちに日本初のシャンプー(髪あらひ粉)の広告モデルに起用されるなど、 浅草発の大きな社会現象を巻き起こしました。

その奔放で凛とした魅力は、時の権力者たちをも翻弄しました。 初代総理大臣・伊藤博文も小つまさんに夢中になり、熱烈にアプローチした一人。 ところが、小つまさんには心に決めた人がいました。 それは、政財界のフィクサーとして恐れられた頭山満(とうやま みつる)。 ある時、伊藤博文が彼女を座敷に呼ぼうとした際、 「頭山様がお見えになりますので」と断られると、 あの天下の伊藤博文も「頭山が来るなら仕方ない」と すごすご退散したという痛快なエピソードまで残っています。



※ 当時の写真を AI カラー化

ピンチもトラブルもチャンスに変える、浅草のDNA

この「東京百美人」をめぐる熱狂の物語は、 どんなピンチもトラブルもチャンスに変え、 常に最高のエンターテインメントを生み出し、人々を魅了してきた浅草のDNAそのものです。

次回、浅草を訪れた際は、 かつて凌雲閣がそびえ立っていた浅草寺の裏手(現在の浅草2丁目・ひさご通り付近)へ、 少し足を伸ばしてみませんか。 【参考資料・関連リンク】



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