江戸時代の推し活? 浅草はお江戸のアイドルの聖地
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- 2025年12月27日
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更新日:12 時間前
浮世絵が伝える、会いに行けるお江戸のアイドル
江戸時代の浅草は、信仰と娯楽の中心地であると同時に、 「美人の街」としても知られていました。
その背景を伝えてくれるのが、当時の大衆メディアでもあった浮世絵です。
江戸を代表する「三大美人」と呼ばれた女性たちの中には、
繰り返し浅草ゆかりの人物が登場します。
江戸時代の「浅草」は、今より広い意味を持っていた
江戸時代の「浅草」は、現在の町名よりも広い地域概念でした。
現在の浅草は、台東区の浅草一~七丁目を中心とするエリアを指しますが、
江戸時代から明治初期にかけての「浅草」は、浅草寺を中心に、
元浅草、寿、駒形、花川戸、雷門、千束などを含む、
隅田川西岸の一帯を指す地域認識でした。
明治期にはこの一帯を中心に「浅草区」が設けられ、
後に下谷区と合併して現在の台東区になります。
さらに当時の人々にとっては、
浅草寺への参詣の流れで上野や谷中方面までを含めた
連続した文化圏として捉えられることも一般的でした。
「浅草寺を中心とする行楽・信仰の圏域」そのものが、
ひとつの巨大なトレンド発信地だったのです。
茶屋文化が生んだ、浅草の評判美人たち
浅草が美人と結びついて語られる最大の理由が、茶屋文化です。
浅草寺の門前や境内には、多くの茶屋や水茶屋が立ち並び、参詣客で賑わっていました。 現代で言うと、茶屋はレストラン、水茶屋はオープンカフェというイメージです。 そこで働く娘たちは、丁寧なもてなしとその容姿が口コミで広まり、 やがて浮世絵師に描かれることで「評判美人」として江戸中に知られる存在となりました。
現代で言えば、 「アイドル」や「インフルエンサー」のような存在だったと言えるでしょう。
実際に会える場所があり、人気が評判として広がり、
浮世絵というメディアによって“見える化”される。
この仕組みは、今の時代と驚くほどよく似ています。
明和の三大美人
江戸中期、明和年間(1764〜1772年)に名を馳せたのが「明和の三大美人」です。
笠森お仙(かさもり おせん)
谷中・笠森稲荷前の水茶屋「鍵屋」の看板娘。
柳屋お藤(やなぎや おふじ)
浅草寺境内にある楊枝屋「柳屋」の看板娘。
蔦屋およし(つたや およし)
浅草寺境内・二十軒茶屋の看板娘。
(※3人目については諸説あり、同じく浅草の「泥亀おきよ(すっぽん おきよ)」とされることもあります)
柳屋お藤と蔦屋およしは、まさに浅草寺境内の看板娘。
笠森お仙がいた谷中は、浅草からほど近く、
当時は浅草参拝とあわせて多くの人々が足を運ぶ人気の散策エリアでした。
彼女たちは江戸時代のプロマイドともいえる、
多色摺木版画の浮世絵(錦絵)のモデルとなり、
多くの男たちが推し活として、浅草へ、谷中へと押し寄せたのです。

鈴木春信《お仙と菊之丞とお藤》横大判錦絵 明和年間(1764-1771)東京国立博物館蔵
寛政の三大美人
寛政年間(1789〜1801年)には、
喜多川歌麿の浮世絵で知られる「寛政の三大美人」が登場します。
難波屋おきた(なにわや おきた) 浅草寺・随身門(現在の宝蔵門付近)脇の水茶屋の娘。
高島屋おひさ(たかしまや おひさ) 両国薬研堀(やげんぼり)にある煎餅屋「高島屋」の看板娘。
富本豊雛(とみもと とよひな) 吉原の芸者。浄瑠璃の一種である富本節(とみもとぶし)の名取でもあった芸達者なスター。
この中で、圧倒的な人気を誇ったのが浅草の難波屋おきたでした。 彼女が差し出すお茶を飲むために、茶屋の前には長い行列ができたといいます。

喜多川歌麿《寛政三美人 (当時三美人)》寛政五年(1793)
浅草は、江戸のトレンド発信地
明和・寛政という異なる時代を通して、
江戸を代表する美人の中に繰り返し浅草の名が現れるのは決して偶然ではありません。
当時の浅草は、
圧倒的な数の人が集まり
熱狂的な評判(口コミ)が生まれ
浮世絵というメディアによって記録に残りやすい
現代で言うアイドルやインフルエンサーが誕生する条件がそろった場所でした。 だからこそ、江戸のアイドルたちが浅草から生まれていました。 難波屋おきたがいた「随身門」は、現在の宝蔵門にあたります。 雷門をくぐり、人通り賑やかな仲見世を歩き、浅草寺本堂を前にして、 宝蔵門をくぐり抜けた時には、
かつてこの付近で江戸一番の評判美人がお茶を運んでいた茶屋があったこと、 かつてこの一帯で輝いていた、 “会いに行けるお江戸のアイドル” たちのことを思い出してみてください。
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