浅草の語源はチベット語? 河口慧海「アーシャー・クシャ説」を追う
更新日:9月24日
「浅草(アサクサ)」という名前は、どこから来たのだろう。
東京を代表する地名の一つであり、日々、様々なメディアで目にするが、その地名の由来は実のところ明確ではない。
現在もっとも一般的なのは、かつてこの一帯が広大な武蔵野の一角にあり、草深い土地に対して「草の浅いところ」であったことから「浅草」と呼ばれるようになったという説だ。台東区立中央図書館も「武蔵野の草の浅いところ」を定説として紹介している。
ところが浅草には、これとはまったく異なる、不思議な語源説が伝えられている。
「浅草は、“アーシャー・クシャ”という言葉から生まれたのではないか」 この説は、「チベット語説」と呼ばれている。一見すると、浅草とチベットを無理やり結びつけた突拍子もない奇説のようにも聞こえる。
しかし、この説を唱えたとされる人物を詳しく知っていくと、話は少し違って見えてくる。
その人物こそ、河口慧海(かわぐち・えかい)である。

「アーシャーは所在地、クシャは茅または聖」
浅草寺の僧侶・網野宥俊が1962年に著した『浅草寺史談抄』には、浅草の地名について幾つかの説が紹介されている。現在も浅草寺自身が、同書を「浅草観音考、浅草寺の再建史など浅草寺を知る必読書」として刊行している。
その中に「河口慧海師の唱える説」として登場するのが、「アーシャー・クシャ」を語源とするチベット語説である。『台東区史』では、慧海の説について、アーシャーは「所在地」を示し、クシャには「茅(チガヤ)」と「聖」という二つの意味があると紹介されている。
そこから、「チガヤの生えているところ」という解釈と、聖観音菩薩が祀られたことで、「聖いお方のいますところ(聖なるもののいる場所)」という解釈の二つが示されたという。
ここだけを読むと、確かに少し大胆な語源説に見える。では、この説を唱えた河口慧海とは、いったいどのような人物だったのだろう。

仏教の原典を求めて、チベットへ
河口慧海は1866年、現在の大阪府堺市に生まれた。上京後、本所にあった五百羅漢寺で出家。1890年には一時、同寺の住職となっている。現在でいえば墨田区緑・両国周辺である。
しかし慧海が本当に求めていたものは、寺の住職という安定した地位ではなかった。彼は京都・黄檗山で膨大な漢訳仏典を読み込む中で、ある疑問を抱く。同じ仏典のはずなのに、中国語訳がいくつもあり、比較すると文章が違う。順序が違う。時には意味そのものまで異なっている。では、釈迦の本当の教えにより近いのはどれなのか。
慧海は『チベット旅行記』の中で、ついにこう考えるに至ったと記している。
「これは原書を得るに限る」
サンスクリット語の原典を確かめなければ、本当のところはわからない、と考えたのである。ところが当時、仏教発祥の地インドでは、大乗仏教のサンスクリット語の原典の多くがすでに失われていた。
一方、その多くをインドから直接翻訳し、膨大な仏教文献として保存していた場所があった。それがチベットである。
慧海自身も、大乗仏教の原典はインドではほとんど失われ、ネパールやチベットに残っていること、またチベット語訳と漢訳を比較することには大きな学術的価値があると記している。
だから彼は、チベットへ向かった。旅行や冒険をするためではない。仏教の原典を読み、真実に近づき、理解することが目的だった。

ヒマラヤを越え、サンスクリットの世界へ
当時のチベットは外国人の入国を厳しく制限していた。それでも慧海はヒマラヤを越え、1901年、日本人として初めてラサに到達した人物として知られるようになる。
しかし彼の旅は、そこで終わらなかった。チベット語による仏典の、そのさらに奥へ。慧海は源流にあるサンスクリット語を求め、仏教の原典を突き詰めていく。
東洋大学の資料によれば、慧海は若い頃から、日本の仏教研究が漢訳仏典だけに依存していることに疑問を持ち、チベット語とサンスクリット語を学び、原典研究の必要性を主張していた。そしてインドへ渡った慧海は、仏教の聖地ベナレスを研究拠点とする。
1909年に英語で出版した『Three Years in Tibet』の序文には、非常に象徴的な場面が記されている。慧海はベナレス郊外のサールナートで、菩提樹の下に座り、サンスクリット写本の『法華経』を読んでいた。18年前、日本の京都で漢訳の『法華経』を読んだことから始まった旅が、ついにインドのサンスクリット原典へ到達したのである。
その序文の最後には、Central Hindu College, Staff Quarters, Benares City, 1909と記されている。これは単に、慧海がこの学院を訪れたという意味ではない。
慧海はベナレスを7年以上にわたってインドでの研究拠点とし、中央ヒンドゥー学院(Central Hindu College)の教員宿舎に暮らしながら、同学院やGovernment Sanskrit Collegeでサンスクリット語を学んでいた。
中央ヒンドゥー学院では、著名なサンスクリット学者 Ram Avatar Sharma らの指導を受け、サンスクリット語の文法や古典を学んだ。チベットで仏典を学んだ慧海は、その源流にあるインドの言葉を、ベナレスでさらに深く追い続けていたのである。中央ヒンドゥー学院は、1898年にアニー・ベサントによって創設された教育機関で、後にベナレス・ヒンドゥー大学(Banaras Hindu University=BHU)を構成する母体の一つとなった。
つまり、「アーシャー・クシャ」という説を唱えたと伝えられる人物は、単にチベットを旅した僧侶ではない。
漢訳仏典を読み、チベット語を修め、ヒマラヤを越え、さらにインドで長年サンスクリット語を学んだ。中国語、チベット語、サンスクリット語という異なる言語世界を横断し、仏教の原典そのものを読み解こうとした、卓越した語学力を持つ仏教学者だった。

「チベット語説」の奥にサンスクリットが見えてくる
では、肝心の「アーシャー・クシャ」とは何なのだろう。調べていくと、ここから話がさらに面白くなる。
古代インドの言語、サンスクリット語に、āśā(アーシャー)という言葉が実際に存在する。「希望」という意味で知られる一方、古い用法には「空間、地域、方角」といった意味もある。これは、慧海の説として伝えられる「アーシャーは所在地を示す」という説明と、かなり近い。
そして、さらに明確なのが、kuśa(クシャ)である。これもサンスクリット語に実在する植物名で、古代インドの宗教儀礼に用いられてきた草を意味する。
9世紀のチベットで、サンスクリット仏典を正確に翻訳するために編まれた対訳語彙集『翻訳名義大集(Mahāvyutpatti)』にも、サンスクリット語の kuśaḥ に対して、チベット語では ku sha と記されている。もともとはサンスクリット語とチベット語の対訳語彙集で、後世には中国語などの対応語も加えられた。
現在参照できる版では、
・サンスクリット語:kuśaḥ
・チベット語:ku sha
・中国語:吉祥草/孤沙
と記されている。
「孤沙」は kuśa の音を漢字で写した音写であり、「吉祥草」は中国仏教で用いられた名称である。つまり、チベット語の ku sha も、中国語の「孤沙」も、その源流をたどればサンスクリット語の kuśa に辿り着く。
すると、一般に「チベット語説」と呼ばれてきた河口慧海の「アーシャー・クシャ説」は、少し違ったものに見えてくる。
河口慧海が見ていたのは、実際にはチベット固有の言葉ではなく、チベット仏教の中に保存されていた、そのさらに奥にあるインド仏教のサンスクリット語の世界だった可能性が高いと言える。「チベット語説」とは「サンスクリット語説」ということではないだろうか。
「クシャ」は、釈迦が悟りを開いた座に敷かれた草
さらに kuśa を追うと、この草が仏教にとって特別な存在だったことがわかる。中国の仏教辞典では、kuśa は「姑奢」「俱舒」「矩尸」などと音写され、「吉祥草」「吉祥茅」などの名でも知られている。
興味深いのは、「吉祥草」という呼び名にも仏教伝承が重なっていることだ。仏陀が悟りを開く直前、この草を差し出した人物は「吉祥童子」と呼ばれ、その草を敷いて座ったことから「吉祥草」と呼ばれるようになった、と仏教辞典は説明している。
つまりクシャ草は、単に古代インドに生えていた植物ではない。
仏教の成道伝承では、悟りを目前にしたシッダールタが草を受け取り、それを菩提樹の下に敷いて座る。その座で魔を退け、悟りを開き、ブッダとなる。
後世の仏教儀礼でもクシャ草は使われ続け、チベット仏教の文献にも ku sha の名で宗教儀礼に用いる草として残っている。
つまり kuśa は、辞書的には「聖」という形容詞ではない。しかし、宗教文化の中では、神聖な儀礼に用いられ、釈迦の成道の座とも結びついた草なのである。
そう考えると、慧海が「クシャ」を「茅」であると同時に「聖」と説明したという話の背景が見えてくる。単なる草の名前ではなく、聖性を帯びた草として理解し、説明していたのではないだろうか。 そして「草」と「童子」といえば、浅草寺の創建伝承にも、どこか気になる話が残されている。
628年、隅田川から観音像が引き上げられた翌朝、十人の草刈り童子が藜(あかざ)を用いて草堂をつくり、その尊像を祀ったと伝えられている。 もちろん、藜とクシャは別の植物であり、この伝承と河口慧海の説を直接結びつける根拠はない。ただ、遠いインドの仏教伝承に「草」と「童子」が現れ、浅草の始まりを伝える物語にもまた「草」と「童子」が現れる。 その重なりもまた、浅草という土地の古い物語を考えるうえで、どこか興味を引く。
サンスクリット語の音は、中国を経て日本へ渡っている
ここで、もう一つ重要なことがある。
仏教がインドから中国へ伝わったとき、サンスクリット語の言葉はすべて中国語の意味に訳されたわけではない。外国語の音そのものを漢字で写す「音写」も盛んに行われた。その痕跡は、現代の日本語にも大量に残っている。
たとえば、
nirvāṇa → 涅槃(ねはん)
kṣaṇa → 刹那(せつな)
stūpa → 卒塔婆(そとば)
śarīra → 舎利(しゃり)
などである。
つまり、 古代インドの言葉 ↓ 中国で漢字に音写される ↓ 朝鮮半島 ↓ 日本
という言葉の旅は、実際に起きていた。
そして kuśa も例外ではない。
中国仏教では「姑奢」「俱舒」「矩尸」などと音写され、また「吉祥草」などの訳語でも伝えられた。
では、āśā kuśa アーシャー・クシャに近い音も、仏教とともに東へ移動し、日本に届いた可能性はなかったのだろうか。ここから先は、歴史的事実ではなく仮説の領域になる。
しかし少なくとも、サンスクリット語の仏教語が中国を経由して日本へ渡るルートそのものは、確かに存在したのである。
「クシャ」と「くさ」、音だけでなく、意味まで似ている
さらに不思議なのが、kuśa(クシャ)と、kusa(くさ)である。音が似ている。しかも意味まで「草」である。
もちろん、これだけで両者を同じ語源とすることはできない。日本語の「くさ」は古くから日本語として使われており、「kuśaが日本語の“くさ”になった」と断定する根拠はない。だが、もし仏教とともに kuśa という音が日本へ入ってきたとすれば、すでに存在した日本語の「くさ」と重なって理解された可能性も想像することはできる。
そして、āśā → アーシャ kuśa → クシャという音を続ければ、アーシャー・クシャになる。そこに「浅草・あさくさ」という音が重なる。
偶然なのか。
何らかの言葉の伝播があったのか。
音の類似だけから答えを出すことはできない。
しかし、河口慧海ほどサンスクリット語、チベット語、漢訳仏典を横断して研究した人物が、この類似に何を見ていたのか、何を感じていたのかは興味深い。
628年、浅草にはすでに「観音」を知る人物がいた
ここで浅草寺の始まりに戻ってみよう。
浅草寺の縁起によれば、推古天皇36年、628年。檜前浜成・竹成兄弟が江戸浦、現在の隅田川で漁をしていたところ、一体の像を網で引き上げた。土地の長であった土師真中知(はじのまつち / まなかち / なかとも)がその像を拝し、聖観世音菩薩であることを知った。そして後に自宅を寺として観音像を奉安したという。
日本への仏教公伝は6世紀半ば。浅草寺の創建伝承は、そのおよそ一世紀後に位置する。つまり浅草寺の伝承の中では、7世紀初頭の浅草に、観音像を見てそれが何であるかを理解できる人物がすでに存在していたことになる。
もちろん、それだけで仏教由来のサンスクリット語の響きまで知っていた人物が、この時期の浅草にいたことにはならない。ただ、浅草という土地の始まりが、非常に早い時期の仏教伝承と結びついていたことは確かである。
「浅草」という地名の現存する最古の記録は1181年
ここで、さらに時間の空白が現れる。
浅草寺の観音示現伝承は628年。一方、「浅草」という地名が文献に初めて登場するのは、東京都の文化財資料によれば『吾妻鏡』の1181年の記事である。鶴岡八幡宮を造営するため、優れた宮大工を「武蔵国浅草」から鎌倉へ呼び寄せたという記録が残っている。
その間、およそ550年。
「あさくさ」という音は、いつから存在したのか。
いつその呼び名が生まれたのか。
いつ「浅」と「草」という漢字は当てられたのか。
地名誕生の瞬間までは、現在残る史料から見通すことができない。この長い空白が、浅草の語源をいっそう謎めいたものにしている。
河口慧海と浅草、意外な接点
河口慧海と浅草には、いくつか興味深い接点がある。
慧海が得度した五百羅漢寺があったのは、本所区緑町四丁目。現在の墨田区緑・両国周辺で、浅草から隅田川を挟んだ近い地域である。
そして彼が出家した1890年、浅草には当時東京を代表する高層建築、凌雲閣・通称「浅草十二階」が完成した。慧海の『チベット旅行記』には、チベットで目にした巨大な建造物を説明する際、「浅草の凌雲閣どころの騒ぎではない。実に高いです」と、浅草の凌雲閣を引き合いに出すくだりがある。慧海は遠いチベットの地にいても浅草を思い出していたことが分かる。
そして、もう一つ興味深いのが観音信仰である。慧海は『チベット旅行記』の中で、チベットについて、自らを「仏陀の国土、観音の浄土」と称する土地であると記している。チベット仏教では観音菩薩への信仰が非常に重要な位置を占める。
一方、浅草という街の中心にある浅草寺の本尊も、聖観世音菩薩である。浅草寺の観音信仰と、慧海が命を懸けて向かったチベットの観音信仰。慧海が「アーシャー・クシャ」という言葉を浅草と結びつけた背景を考えるとき、この重なりもどこか気になる。
さらに、慧海が亡くなった1945年の新聞資料には、浅草寺で河口慧海の告別式を行うことを伝える記録も残されている。
東京で仏教者となった青年は、チベットへ渡り、インドへ向かい、サンスクリット原典を読み、その知識を携えて日本へ帰ってきた。その彼が、「浅草」という音の中に、遠いインド・チベットの言葉を見たと伝えられている。
そう考えると、「浅草=アーシャー・クシャ説」は、単なる音の偶然から生まれたものではなく、河口慧海自身の長年にわたる仏教研究と言語研究の中から生まれた考察だったのではないか、という見方もできる。
長年、サンスクリット、チベット語、漢訳仏典の間を行き来してきた慧海の耳には、「浅草」という音が、私たちとは少し違って聞こえていたのかもしれない。

浅草の語源は「アーシャー・クシャ」なのか
ここまで見てきても、「浅草」という地名がサンスクリット語の āśā kuśa に由来すると断定することはできない。現在もっとも一般的なのは、あくまで「草の浅い土地」など、日本語の地名として説明する説である。
しかし、その一方で、散らばっていたパズルのピースが一つずつはまり始めるように、見えてきたこともある。āśā に「地域・空間」に関係する語義がある。kuśa は実在するサンスクリット語である。
それは古代インドの宗教儀礼で使われ、釈迦の成道伝承と結びつく特別な草だった。その語はチベット仏教にも ku sha として残った。中国仏教にも音写と訳語の両方で伝わった。そして、サンスクリット語の仏教語が中国を経て日本へ伝わった例は数多く存在する。
ここまでは、想像ではない。
実際の仏教史の中に存在する事実である。
河口慧海が遺した、遥かな言葉の謎と壮大な歴史ロマン
「浅草はチベット語のアーシャー・クシャから来た」
その一文だけを見れば、確かに突飛な説に感じる。だが、それを唱えたと伝えられる河口慧海という人物を知ると、その見え方は少し変わってくる。漢訳仏典を読み、その訳に疑問を持ち、原典を求めてチベットへ入り、さらにインドへ渡った。ベナレスで長年サンスクリット語を学び、自らサンスクリット写本を読み、数百部に及ぶ仏教写本を日本へもたらした。
慧海は、単なる旅行者でも冒険家でもない。仏教の源流を求め、言葉をたどり続けた研究者であり、求道者だった。
その慧海が、なぜ「浅草」という音の奥に“アーシャー・クシャ”を見たのか。長年、サンスクリット、チベット語、漢訳仏典の間を行き来してきた慧海の耳には、「浅草」という音が、私たちとは少し違って聞こえていたのかもしれない。
もちろん、それだけで「浅草=アーシャー・クシャ」が史実になるわけではない。だが、これほど言葉の源流を追い続けた人物が残した説を、ただの語呂合わせや奇説として片づけてしまうのも、少し早いのではないだろうか。
最初は、浅草の語源についての奇説だった。しかし、その言葉を追ってみると、古代インドが現れ、釈迦の成道が現れ、サンスクリット語が現れ、中国への仏教伝播が現れ、チベットに保存された経典が現れ、そしてヒマラヤを越えて原典を追った、一人の日本人僧侶が現れた。そして最後に、再び浅草へ戻ってくる。 「浅草」という名は、本当に遠いインドから旅をしてきた言葉なのだろうか。その答えは、今はまだわからない。けれども、「アーシャー・クシャ」という響きと、その奥にあるサンスクリット語や仏教の世界を一度知ってしまうと、雷門の「浅草」という二文字も、以前とは少し違って見えてくる。
1300年以上にわたり観音信仰が続くこの街の名の向こうに、古代インドから中国、チベット、そして日本へと続いた仏教の長い旅を想像してみる。もしかすると河口慧海も、「浅草」という古い地名の中に、そんな遥かな言葉の旅を見ていたのかもしれない。
そんな歴史ロマンが残されていることもまた、浅草という街の面白さなのだろう。

【参考資料・関連リンク】
台東区『台東区史 上』(台東区、1955年)
Ekai Kawaguchi, Three Years in Tibet(1909年)|Project Gutenberg
『日本歴史地名大系13 東京都の地名』(平凡社、2002年)
『吾妻鏡』鎌倉幕府の歴史を記した史書
企画・調査・執筆:ASAKUSA LOVER 歴史探究室|© ASAKUSA LOVER



